COLUMN ・ 2026-02-13
ルールの前に、善性と獣性を考える
権 成俊
憲法改正について議論になっていますね。いろんな意見がありますが、私はまず根本的な死生観や倫理観についてもっと話し合う必要があると思います。
アムロが兵士を撃った瞬間
ガンダムの中で、軍属であるアムロがお母さんに会うために連邦軍のホワイトベースから離れて、敵国であるジオン軍の統括エリアにある難民キャンプに潜入するエピソードがありました。お母さんには会えましたが、連邦軍の兵士が紛れ込んでいるという通報を受けて、ジオン軍の兵士がキャンプを検閲します。お母さんはアムロが見つからないようにベッドの中にかくまって「病人です」と言いますが、ジオン軍兵士は布団を引きはがします。その瞬間、アムロは兵士を撃って殺してしまいます。
お母さんはアムロに言います。
「この人にも家族があるだろうに。」
しかしアムロは言います。
「お母さん、これは戦争なんだよ。僕が死んでもいいの?」
ここにはとても深い倫理的な問いが隠されています。人を殺すのはよくない。かといって、自分は一方的に殺されてもよいのか。
性善説、性悪説という議論もありますが、私は人には道徳的な美しい心と、獣のような衝動的な感情が共存していると思います。私も人を殺したくないですが、もし戦争になって、敵が獣のように私に向かってきたら、やはり銃を撃ってしまうと思います。
善性を前提にしつつ、獣性に備える
憲法で武力行使を禁じている前提として、人の善性への期待があるでしょう。人は本来倫理的で、話し合えばわかる、と。
しかし、常にそうではありません。そうではない獣性にとらわれてしまったら、こちらも武力行使をしなければならない、と考えます。
それならば、私たちにできることは、いかに相手の善性を引き出し、善なる心で話し合い、コミュニティを維持していくかを考えることです。そのために国のリーダーは善性を持って議論すべきであり、獣性を前提とした議論をするべきではないと思います。
武力行使について考える場合でも、こう考えるべきです。
本来、善性によって話し合い、助け合い、解決すべきことで、まずはそこに全力を尽くす。それでも、相手が獣性にとらわれて武力行使を行ってきた場合、残念ながら、自らも武力行使をせざるを得ない。そのためのルール変更である。
重要なのはルールではなく、その背景にあるポリシー、考え方です。そこが曖昧で共有できていないまま議論をしても、すれ違うだけです。
トロッコ問題と山上事件
このような問題は、安倍元首相を殺害した山上さんの事件についても言えます。
山上さんが安倍さんを殺したのは、多くの人を助けるために一人を犠牲にしてよいか、といういわゆるトロッコ問題です。結果的に、統一教会は解散になりそうですし、韓国社会にも大きな影響を与えています。
このトロッコ問題には正解というものがなく、コミュニティとして非常に難しい問題です。山上さんの行動が正しかったのかどうか、多くの学者さんが長い時間をかけて考えても結論は出ていません。本来どうあるべきか、というポリシーが社会的にも作り上げられていないのです。
それなのに、「人を殺してはいけない」という法律に違反している、という点だけで彼を無期懲役にしようとするのは、法律の濫用に思えてなりません。
誰もがアムロになりうる
誰もがアムロにも、アムロのお母さんにも、そしてジオン軍の兵士にもなりえます。
自分がどの立場にあったとしても、納得できるルールなんてあるのでしょうか。
願わくは、そのような極限状態にならないようにすることです。