COLUMN ・ 2026-05-04
ソフトバンクで何を見てきたか ── 営業からネット担当への日々で身体に刻んだこと
権 成俊
本記事について
いま、当協会のWebサイトをリニューアルしている最中です。AI(Anthropic社の Claude)と対話しながら進めていまして、文章の生成も多くを手伝ってもらっています。
その過程で、私自身の価値観や、なぜ今のような経営観を持つに至ったかを AI に伝えるために、自分の歩みをいろいろと語る時間がありました。せっかくですから、その対話の内容をひとつの記事の形にまとめてみました。私という人間の背景を、サイトをご覧になる方にもお伝えする材料として、ここに置いておきます。
ご興味のある方は、お読みください。
Webコンサルタントを名乗るようになって24年が経ちます。
実は知らない方も多いと思いますが、私は29歳で今の会社を作りました。しかし、その前に大学生の頃、友人と一緒に学習塾を作った経験があります。木造アパートを借りた、本当に手作りの小さな塾でしたが、その経験が今の私の原点になっています。
木造アパートで始めた、小さな塾
私は小学校5年生の頃から、近所の警察道場で柔道を習っていました。中高は私立の一貫校に進学しまして、そこの柔道部に中学1年から高校3年まで所属していました。
その柔道部で同級生だった栗林君から、ある日相談を受けました。彼は大学に入ってから予備校でアルバイトをしていたのですが、今の予備校の詰め込み教育はあまり良くないと感じていて、自分でもっと理想的な教育ができる塾を作りたいと思っている、一緒にやらないか、と誘ってきたのです。
正直に言いますと、栗林君は柔道部の頃から練習にあまり真面目に出るタイプではありませんでした。何かをやり遂げる強い意志のあるタイプには、私の目には見えていなかったのです。それで「本気で言っているのか?」と聞きました。「本気だ」と返ってきました。それで私は彼を信用し、それなら一緒にやろう、と決意しました。
しかし今振り返ると、結局栗林君はチラシを撒くのも普段の掃除もサボることが多く、「軽い気持ちで何となく格好いいことが言いたかっただけなんだろうな」と思います。ただ、今でも彼はその学習塾を会社化して、継続して経営を続けてくれています。
場所は、共通の知り合いの家がたまたま見つかりました。バブルが弾けて、木造アパートが1棟空き家になっていた家でした。家主と交渉して、「次の入居者が決まるまで貸してください、儲かったら少しお金を払います」という条件で、借りることができました。かなり古い建物で、雨風はかろうじてしのげるという程度でしたが、自分たちで掃除をしたり、整っていない電気の配線を工事したりして、なんとか使えるようにしました。
机も椅子もありません。困っていたところ、たまたま近所の小学校の前を通った時に、夏休み前で古くなった椅子や机を校庭に出して捨てている場面に出くわしました。すぐに金網越しに「すみません、その机、捨てるんですか?」と話しかけました。「捨てますよ」と返ってきたので、「それをもらっていってもいいですか?」と聞いたら、「邪魔だから、今すぐ持って帰るならいいよ」と言われたのです。「あ、すぐ持って帰ります」と返事をして、そこから手で持って何往復もして、1キロほどの道のりを、机と椅子をそれぞれ10台くらい運んだ記憶があります。
そういう苦労をして、木造アパートの塾を始めたわけです。
最初の頃は、なかなか生徒さんが来ませんでした。チラシを5,000枚くらい撒いて、やっと1人反応があって電話がかかってくる、というくらいです。中学校や高校の前でチラシを配っていたら、体育の先生が出てきて「この辺でチラシを撒くのはやめてくれ」と怒られたこともあります。
それでも、たまたま興味を持ってくださる方がいらっしゃって、熱心に対応していたら成績も上がってきて、結果的にそのお母さんが気に入ってくださって、いろいろな方を紹介してくださいました。それが何度か続いて、最終的には多い時で20人ぐらいの生徒さんがいて、先生も3〜4人いる、それなりの規模の塾になりました。
当時、学んだ二つのこと
その経験から、私が当時学んだことが2つあります。
ひとつは、お母さん方は必ずしも「成績が上がること」だけを求めていたわけではなかった ということです。たしかに大半のお子さんは成績が上がりました。けれど、そう簡単には上がらないお子さんもいました。それでもお母さん方は、私たちに満足してくださっていたのです。
おそらく、ほとんどのお母さんは、自分のお子さんの勉強を 「自分と同じように大切に思ってくれる誰か」 に一緒に見てほしかったのだと思います。だから私たちは毎月、お母さんへの手紙とレポートを書きました。「今月はこんな話をしてくれました」「とても良いお子さんです」。それを書いて渡したら、ものすごく喜んでくださいました。
もうひとつ学んだのは、信頼されることが先で、信頼されたら次にやることは、相手が本当に求めているものを知ることだ ということです。
この2つは、後にソフトバンクの志望動機にもそのまま書きました。
私が直接教えた生徒は、20歳から23歳までの数年で、20人にも満たなかったと思います。ところがそのうち2人の女子生徒の結婚式に、後年、恩師として呼んでいただきました。それぞれの新婦のお母さんが「呼ぶべき恩師がなかなかいない」と困られたところに、「塾のゴン先生は?」と提案してくださり、ご本人も「ゴン先生ならいい」と言ってくださった、と聞いています。
塾の先生が結婚式に恩師として呼ばれることは、それほど多くないと思います。私が特別に教え方が上手かったわけでもありません。お母さんとの信頼関係が、何年も後まで残っていただけのことだと考えています。
いま振り返ると、AB3Cで言うところの Company(自社の信頼性)と Benefit(顧客が本当に求めているもの) の発見は、20歳の私の中に既にあったことになります。フレームワークとして言葉にしたのはずっと後のことですが、原型はあの木造アパートの一室にあったわけです。
ソフトバンクを選んだ理由
私は高校生の頃から、起業するか研究者になるか、で悩んでいました。大学に入る頃にはもう起業する方向で気持ちは決まっていましたが、どんな分野で起業するかまでは見えていませんでした。理系のことや技術のことを知っておいた方が将来有利だろうと思い、理系に進学しました。大学院に入っても、何をやりたいかは決まらないままでしたが、専門の道で研究者になることはもう自分の中ではないと考えていました。
就職活動を意識し始めた頃、母や祖母からは「日本の会社に勤めても同じ給料はもらえない、苦労するよ」と言われていました。我々の一族では、ちょっと前までは韓国人差別があった時代背景もありますし、両親の世代でサラリーマンになった人は1人もいなかったのです。母や祖母は経験から、弁護士のような独立した職業の方がいいんじゃないか、という話もしていました。
ただ私自身は、大学で海外からの留学生もたくさん見てきて、国籍による不利と言ったら自分なんて大したことはない、もっと不利な人はたくさんいる、優秀な人間なら別に日本じゃなくても世界に出ればいい、と考えていましたから、そんなに気にしませんでした。
その頃、就職活動が近づいてきて、毎日日経新聞をじっくり読むのが好きだったのですが、その中で ソフトバンク という会社が非常に目立っていました。月に数回は必ず紙面で名前を見ますし、株価の動きやM&Aの活発さもすごい時期でした。未上場だったにもかかわらず、それだけのプレゼンスがあったわけです。
ソフトバンクのニュースを一つ一つ追いかけていると、この孫正義さんという人は すごく先見性のある人だな ということが分かってきました。逆に、他の大企業の記事を見ていると、本当は確信が必要なはずの場面でもそこから逃げて、リストラだけで何とかしようとしている、というような経営姿勢が透けて見えて、少しがっかりすることもありました。当時の私だから見えていなかったことも当然たくさんあったのですが、それと比べると、孫さんは 能動的に社会を変えていく、そのためにチャンスを見つけてリスクを取って、自分の事業規模以上のリスクを取って取り組む という姿勢があり、それがすごくかっこいいなと感じていたのです。
それでソフトバンクに入社しようと思って、採用試験を受けました。ペーパー試験から最終面接まで、5次試験ぐらいまでありました。私の場合、自分で独立したいという気持ちがあったので、修士課程を出ているのに営業志望でした。理系の修士を出て営業というのは、戦力になるかどうかも含めて、なかなか採用してくれない会社が多いのですが、ソフトバンクはその点で門戸を開放してくれて、私のような大学院の修士卒でも受験をさせていただくことができ、採用していただくことができました。
採用は、2万人中104人。短大を含めての104人でした。1ヶ月の研修の後、ネットワーク第一支社第一課に配属されました。当時、最大の予算を持っていた課でした。後で当時の課長から、「人事には『最も優秀なのを回してくれ』と頼んだから、お前が来たんだ」と聞いたことがあります。
戦い方を変えるしかなかった
入社後、第3支社(在籍中に支社番号が振り直されました)の約20人の営業マンの統一基準ランキングで、半年連続で1位を取らせていただきました。
ただ、これは「実力で勝った」というよりも、戦い方の違いだったと考えています。
私が担当したのは、NECグループ・IBMグループの中でも本体ではなく、子会社にあたる会社でした。たとえば NECテクノサービスのような会社です。先輩はNEC本体・IBM本体といった年商数千億円規模の企業を担当していましたから、私の担当先は1桁小さい数百億円規模で、明らかに不利な状況でした。
このまま普通に営業していても、数字は出ません。ですから戦い方を変えました。
先輩方は、当時売れ筋であったマイクロソフトのソフトウェアなど、お客様が欲しいものをひたすら売る、という姿勢でした。しかし私は、それをやっていても小規模なお客さん相手では大した利益が稼げません。ですから、潜在的にお客さんが関心を持っていながらも、実はまだ着手できていない分野 を探しました。
それが、セキュリティと、サーバー用メモリという分野だったのです。
もちろん、これは私が個人的に発掘したというより、もっと俯瞰すれば、ソフトバンク全体としてそういった分野にチャンスがあるという分析があり、まだ日本であまり流通していないものを売るだけの基盤を持っていた からこそできたことです。私はそのおかげで、戦い方を変えることができたのだと思います。
ただ、それだけだとお客様は買ってくださいません。決め手は、「相手にとっても良い話か」 を考えることでした。私が売ろうとしていた商品は、お客様のエンドクライアントに「初めて知った」「とても良い」と喜んでいただけるものでした。だからお客様も喜んで、その値段で買ってくださったわけです。
NECテクノサービスでのソフトバンク調達割合は、私が担当して1年弱で、8%から90% まで上がりました。
これも、いま振り返れば、20歳で塾を始めた時の発見と同じだったと思います。相手が本当に求めているものは何か を知れば、商売は動きます。
売上ゼロと表示された月
その後、ネット担当を任されました。
ECというマーケットがこれから大きくなる、という認識は、孫さんを始め上の方々にはあったと思います。ただ、現場としては、新しい領域は時間もかかるし、どのスピードで成長するか予測しきれない、将来は伸びるだろうけれどまだそこまでいかないだろう、というのが空気だったように記憶しています。それがあれよあれよという間に伸びました。
売上が大きくなったのは、やはり EC市場の成長そのもの があったからで、私はその窓口を担当していたに過ぎません。窓口を担当する機会をいただけたことは、ありがたいことでした。
ただ、市場の波に乗れたとしても、その規模を捌くのは別の話でした。日本では従来見たこともない量のソフトウェアを、短期間で出荷していました。ソフトバンクの社内システムは、その規模を想定していません。倉庫の処理能力を超えていました。物流、仕入れ、クライアント、いろいろな部署に頭を下げて、「夜中の2時まで倉庫を開けて受け入れてください」と無理をお願いして回りました。この調整は、私の役割でした。
ある月、私は12億円を出荷しました。営業マンの月のノルマは1億円ほどでしたから、12倍ほどになります。鼻高々の1ヶ月でした。
ところがある日、システムを見ると、自分のノルマ達成率がなぜかゼロになっていました。「これだけ売ったのに、ゼロになっている。何かのトラブルか?」と、正直、ヒヤヒヤしました。すぐにシステム部門に相談したところ、「10億円を超えると一周回って桁あふれするんですよ。裏側ではちゃんと数字を持っているから大丈夫だよ」と言われ、ほっと胸をなでおろしました。
MVPになっても、ボーナスは増えなかった
ソフトバンクは、成績がいいとボーナスをたくさんもらえる、というのが大きな売りで、採用説明会でもそれを強くアピールしていました。私もそのつもりで入社しました。
ところが、最初のボーナスは、同期の中で一番低いぐらいでした。
理由はこうです。私が配属された課は、前の年に最も成績の良かった課でした。最も成績が良かった課は、翌年に最も高いノルマを与えられます。前年の高い売上を超えること自体が難しい構造です。私の配属年、課としての成績は実際とても悪く、私自身もまだ配属半年で十分な成果を出せていませんでしたから、「課の成績が悪いから、自分の成績もまだだから」とボーナスは抑えられました。
その後、半年連続でMVPを取らせていただきましたが、ボーナスは思ったほど良くなりません。さらにネット通販で、ソフトバンク歴代1位のシステム桁あふれが起きるほど売っても、結果は変わりませんでした。「これだけ達成すれば良くなるぞ」と上司に言われた基準を、はるかに超えて出してもです。
入社したばかりの頃は、週に3回ぐらい会社に泊まっていました。宿泊施設などありませんから、机に突っ伏して寝て、そのまま朝から働く、という生活です。それくらいハードに働いて、ここまで結果を出しても、評価につながらないのか、と。
私は、ある程度お金を貯めて起業したいという気持ちがありましたから、ここまでやってもダメなら、ここでやってもしょうがないな という気持ちが、自然と湧いてきました。
これも「ソフトバンクが悪い」という話ではないと思っています。大組織には、課単位で予算が固定されているなど、構造的な性質があります。誰かが悪意を持っているわけではありません。ただ、自分はこの構造の中で勝負を続けるよりも、外に出て自分でやる方が向いている、と気づくきっかけにはなりました。
28歳で会社を辞め、日本初のWebコンサルタントへ
28歳で、私は会社を辞めました。29歳になった年の夏に、いまの会社を起業しました。
「Webコンサルタント」と名乗ることに決めたのですが、当時、日本にこの言葉はまだありませんでした。
そう言える根拠が一つあります。当時の Yahoo! JAPAN は、現在のような自動巡回型の検索エンジンではなく、人手で運営する 登録型検索エンジン でした。「ネットサーファー」と呼ばれる職種の方々が、世の中のサイトを一つずつ見てカテゴリに登録していく仕組みです。
私もホームページを作って「Webコンサルタント」として登録しようとしたら、「インターネットコンサルティング」というカテゴリに入れられてしまいました。ただ、そこに既に登録されていた他の会社さんを見ると、全員が インターネットの「ネットワーク」を扱うコンサルティング、もう少し広く取っても インターネットでシステムを作るコンサルティング ばかりだったのです。
私がやろうとしていたのは、もっと上のレイヤーの 経営とマーケティングを扱うコンサルティング でしたから、Yahoo! JAPAN にお願いをしました。「『Webコンサルタント』というジャンルを新しく作ってもらえませんか」と。それが認められて、Webコンサルタントというカテゴリが Yahoo! JAPAN の中に新設されたのです。
自分でもいろいろ調べたのですが、同じことをやっている会社は他に見つかりませんでした。ですから、Yahoo! 登録上は少なくとも、最初のWebコンサルティング会社だったのだろうと思います。
戦略は、届く場所を選んでこそ生きる
ソフトバンクで学ばせていただいたことは多くあります。
孫正義さんが愚直にマイケル・ポーターの理論に従って事業ポジションを選び続けていく姿。理系の修士で営業を希望した私を採用してくれた懐の深さ。当時最先端だったネットビジネスを、若手に近い私に任せていただいたこと。すべて、いまの私の原点です。
同時に、ある気づきもありました。戦略の力は、組織の規模が大きくなるほど届きにくくなる ということです。誰かが悪意を持っているのではなく、構造がそうなっている。意思決定者まで距離があり、合意形成が長く、株主の制約があり、過去の成功体験が残っている。
私が支援したいと思っていたのは、もともと大企業ではありませんでした。20歳で塾を始めた時に発見した 信頼と、相手が本当に求めているものを知ること。ソフトバンクで身体に刻まれた 戦略性と、相手の事情から逆算する発想。この2つを軸にして、目の前で動いてくださって、自身の判断で変われる 中小企業 こそが、私が戦略を届けたい場所でした。
24年経ったいまも、その軸は変わっていません。戦略は、届く場所を選んでこそ生きると、私は考えています。